2014年08月06日
 ■  Blue Dolphin’s Journal-August 6th, 2014-

Augut%206th%202014.jpg

ちょうど18歳の時、広島県で初めて原爆ドームを観た時の事をよく覚えています。何十年もの時が流れている中で、ただ一つの場所だけ時計の針が8時15分で止まっているかのような異様な雰囲気。。。『はだしのゲン』でしか観た事がなかったので非常に衝撃的でしたねぇ。。。あの存在感にはめちゃくちゃ驚いてしまいましたもん。。。
日本史の中で刻まれている【昔々、戦争があった。そして広島・長崎に原爆が落とされた。その後で戦争が終わった】という真実…。いつまでも、これからも様々な人達が様々な国々から広島を訪れて、その史実・原爆ドームの【生き様】を感じて欲しいなぁと思いますねぇ。。。

【過去は変わらなくても、未来は変えられる】⇒やっぱり平和が一番ですよ!!! ねっ!!

Rory.jpg

With Love,
倉庫課 Blue Dolphin

投稿者 jatehime : 08:20 | トラックバック
2014年05月21日
 ■  隠れた良将

宇喜多直家

?誰?

ウキタナオイエ

正直良将?ってなる。

この人の得意技はA・N・SA・TU

闇討ち、毒殺、なんでもござれ。

日本史上初めて鉄砲による暗殺も行っている。

直家の右腕で実弟でもある忠家も直家と会うときは必ず

鎖帷子を着込んでいたというからよっぽどである。

幼い頃に祖父が暗殺され父親とともに浪人生活を送る。

長じて備前の浦上家に仕え、謀略のかぎりを尽くし頭角をあらわす。

その凄まじさは、毛利元就、尼子経久と並んで中国三大謀将に数えられ

松永久秀、斉藤道三とならぶ悪人とされる。

謀略の限りを尽くす直家だがその生涯において家臣を粛清・追放した事は

なく、自ら畑を耕し倹約して兵糧を蓄えた話もある。

浦上家を追い落とし、備前の大名になったあとは城下町の発展に努め、現在の

岡山県の基礎を築く。

非常ではあるが無道では無い。そんな感じ

営業課

ブログランキングに参加しています。クリックのご協力をお願いします。⇒banner_02.gif

投稿者 jatehime : 09:36 | トラックバック
2014年04月10日
 ■  隠れた良将

遠藤直経

?誰?

エンドウナオツネ

浅井長政の守り役。

この人の助言に従っていれば、浅井は滅亡する事は無かった

かもしれない。

お市の方と長政の婚礼のとき。

直経は信長の暗殺を進言する。

長政はそれでは信義に反するといって進言を退けた。

次は、金ヶ崎の退き陣のとき。

織田か朝倉かで去就に迷う長政に直経は織田につく事を強行に主張

結局、長政は朝倉につく事に。

最後は姉川の戦い。

直経は姉川に布陣中の織田に奇襲をかける事を進言。

長政はそれを退ける。

姉川で浅井朝倉連合軍は敗退するが直経は織田の武将になりすまし

味方の首をかかげ信長の暗殺を謀る。

今一歩で正体を見破られ首をあげられる結果となった。

もし、直経の進言に従っていれば長政は北近江、美濃、尾張、伊勢の四国を

治める大大名となれていたかもしれない。

織田家の有力な一門衆として信長の天下取りに貢献していたかもしれない。

首をあげられるとき、直経は何を思っただろうか。それは誰にも分からない。

ただ確実に言えることは、直経は決して長政を見捨てなかったという事実。

織田家を敵としてみた場合、常に標的は信長に絞っていたということ。

織田家がいかに強大であろうと、それを支えているのは信長という一個人であり

信長さえ討てば織田家は瓦解する。そう考えていたのではと、私は思う。

営業課

ブログランキングに参加しています。クリックのご協力をお願いします。⇒banner_02.gif

投稿者 jatehime : 13:14 | トラックバック
2014年04月09日
 ■  隠れた良将

細川藤孝

ホソカワフジタカ

?誰?

東京都知事選で小泉氏と組んで見事に惨敗した細川護照氏のご先祖様

元々、足利義輝に仕えていたが義輝が松永久秀と三好三人衆に殺されると

義輝の弟、義昭を連れ出して越前の朝倉義景を頼る。その後明智光秀の仲介で

織田信長を頼り再興された足利幕府の幕閣に連なるも、信長と義昭の関係

が悪化すると信長に仕える。光秀とは越前以来の付き合いで光秀の娘を長男

の嫁に貰うほど親密であったが、本能寺の変からの騒動では秀吉側につく。

豊臣政権下では家康に接近し、秀吉の死後は家康に仕えた。

見事な遊泳術であるが、同じような経緯をたどった藤堂高虎が非難されるのに

藤孝を非難する声はあまりあがらない。

実際、秀吉死後の行動は息子忠興が主体だったし津という要所を与えられ外様に

もかかわらず家康、秀忠と2代にわたって無上に重用された高虎にたいして藤孝は

所領は三十三万石とはいえ中央から遠くはなれた九州の豊前、当人は京で楽隠居して

いたため世間から嫉妬を受けなかったと思われる。

藤孝は剣術を塚原卜伝に学び、日置流(弓術)の印加をうけ、武田流(騎射)を相伝された

暴れ牛の角をつかんで投げ飛ばしたとの記録もある。

また諸芸能にも造詣が深く当代随一の教養人との呼び名も高い。正に文武両道である。

古今伝授というものがある。古今和歌集の解釈を口伝で伝える事をいい、当時は藤孝が

唯一の伝承者であった。関ヶ原の戦いのとき藤孝は手勢を率いて城を守っていたが、西

軍の大軍の前にあわや落城寸前にまで追い詰められ藤孝も切腹を覚悟したそのとき、後

陽成天皇の勅使が訪れ曰く

「藤孝は古今伝授をうけた唯一の人物であり、これが失われる事はわが国にとって重大な

損失である、戦を止めよ。」

芸は身を助けるということか。

営業課

ブログランキングに参加しています。クリックのご協力をお願いします。⇒banner_02.gif



 



投稿者 jatehime : 08:46 | トラックバック
2014年04月08日
 ■  隠れた良将

北条氏康

?誰?

ホウジョウウジヤス

早雲から数えて三代目にあたる人

誰が呼んだか分からないが人呼んで「相模の獅子」まあお隣さん達が龍とか虎とか呼ばれているので釣り合いをとったと思われる。

すなわち、武田信玄や上杉謙信と肩を並べる人物ということだ。

まあ実際、河越夜戦のときのこの人は獅子と呼ばれるにふさわしい風格と言動をみせる。

河越城を囲んだ山内・扇谷上杉連合軍は11万、氏康率いる北条勢は8

「私が知っている戦は大軍だからといって必ず勝つわけではないし、小軍だから必ず負けるわけでは無い。勝敗は将兵が心を1つにするか否かである。諺にもあるだろう。小敵いえども侮るべからず。大敵といえども恐るべからず。元々上杉の大軍に小軍で戦うのは今日に始まったことではない。その都度私は勝ってきた。恐れることは何も無い。みんな心を1つにして力をあわせ、ただ我の向う所を視よ」

そう兵士達を激励し、向う所を視よ。の言葉通り突撃する北条軍の先頭に立ち見事に上杉軍を蹴散らした。後に日本三大奇襲にあげられるこの戦い以後、時流は北条家に傾き関東の覇権を握ることになる。

また氏康は政治家としても優れた人物であった。評定衆とよばれる官僚機構の創設、検地を実施し領民の税負担を明確にし、家臣の基本台帳を作成し動員兵力を明確にする。戦国時代で初めて貨幣の統一を成し遂げ、四公六民で税率を固定し目安箱を設置して領民の声を政治に反映させた。

上記のどれをとっても氏康より後の時代の名君と呼ばれた人達が行ったことである。それを先んじて行った氏康の政治家としての資質が群を抜いている証左であると思う。

「主君が官史を選ぶは当たり前だが、官吏も主君を選ぶものだ。戦にあけくれ、官吏を軽んじ領民を慈しまなければ、人は他国に去ってしまう。主君とは官吏を愛し領民を慈しむのが務めである」

「なんでも家臣に任せるのではなく、自分で働け。北条家の長子として育ったお前は世情に疎い。功績をつんでも取り上げず、労をつくしても賞しなけれれば人心は離れていく。その時に戦がおこって、皆に甘い言葉をかけても誰も言うことを聞いてくれはしない。だから少しの功も忘れず、小さな働きを見捨てず時々に褒美を与え励ますことを忘れてはいけない」

営業課

ブログランキングに参加しています。クリックのご協力をお願いします。⇒banner_02.gif



投稿者 jatehime : 10:22 | トラックバック
2014年04月07日
 ■  松江道

しっていましたか。

出雲大社が近くなったことを。

以前は、松山道・瀬戸大橋・」山陽道・岡山道。米子道・山陰道と

400km近い距離を5時間近くかかっていたのが、

松江道だ一部開通となり、しまなみ・一般道・松江道と300khほどとなり4時間

くいらいでいけるようになってます。

無料区間もありお徳ですよ。

今回、2月末に行ってきました。

写真1.JPG

道路以外は雪景色できれいでした。

がっかりはダイハツのべた踏坂にいったけど、

カメラの写し方がうまいですね。

写真2.JPG

今回は境港ということでこれですよね。

写真3.JPG

おいしかったですよ。

ブログランキングに参加しています。クリックのご協力をお願いします。⇒banner_02.gif

投稿者 jatehime : 11:43 | トラックバック
2009年02月10日
 ■  たいがぁー

 天地人が始まった。個人的に直江兼続は好きだし俳優陣も問題ない。一話二話の子役の演技には不覚にも涙ぐんでしまった。しかし、長澤まさみさんが登場したあたりから暗雲が漂い始めた気がする。大きく歴史を曲げないかぎり、大河にも遊び(史実にないこと)をいれることに反対はしないが、こればかりはいただけない。信長が最も恐れたのは謙信であった。当時としては、前代未聞の巨城安土城を築いたのも謙信対策だったほどである。そのことを踏まえたうえで、洛中屏風を献上する使者に無名の女性を選ぶことはまずありえない。さらにのこのこついてきた兼続を正使無視して信長が個人的にあうことは、天地がひっくり返ってもあるはずがない。極めつけに自分の気に障ったからといって上杉の使者を切り捨て、首を送ろうなんて発想は信長にはない。・・・がんばれNHK

倉庫課
ブログランキングに参加しています。クリックのご協力をお願いします。⇒banner_02.gif

投稿者 jatehime : 00:00 | トラックバック
2008年07月28日
 ■  さて本題

 最上義光。伊達政宗との対比で奸知に長けた陰険な人間として語られることの多い彼だが実際は、正宗をはるかに凌駕する、日本史上稀な英雄である。
 義光は謀略を好んだが、それは正面衝突による兵の損失を嫌ったからにほかならない。義光の言葉の「大将と士卒は扇のようなものだ。要が大将、骨が物頭、兵が紙である。どれがかけても用をなさないのだから、士卒は我が子のようなものだ。」からもそのことがさっせられる。またその姿勢が鉄砲という兵器を注目させ上杉侵攻の時に二千挺という数を揃えることができたのではなかろうか。時代が違うとはいえ、近畿に一大経済圏を築いた信長が、武田侵攻時にかき集めた鉄砲が三千だったことを考えれば中央から、離れた山形で二千を揃えられたということは、驚嘆に値する。
 また義光は戦国時代の人の中で民を大事にすることでは、他の追随を許さない人物である。ある家臣が、居城である山形城に天守閣を築いてみたらと進めたところ義光は「仁義を持って家臣、領民をいたわることこそあらゆる計略に勝る。天守閣など防衛に無意味なものをたて、領民に負担をかけるべきではない」と答えたとされる。
 義光は戦場においては、猛将であったが敗走する敵を追撃するようなことはせず滅ぼした家の遺臣を召し抱え、遺臣たちが望めば家の再興を認めた。また優れた人物を知ると配下に加えることを熱望し勧誘を怠らず、その人物の好みに合わせた条件を提示するのが常だったとされる。そのため義光に内応するものが多かったという。また戦において常識だった苅田狼藉は決して認めなかったといわれている。
 江戸期における義光の評価は柔軟で非道を嫌い勇猛であるが邪悪ではなくまさに君の君たる器である。と評されている。
 それを裏づけるのが、北楯大学堰であろう。現在も庄内平野の農業を支えるこの堰は義光最大の功績であろう。もともと最上川左岸は平野であるが水利が悪く雑木林とまばらな水田があるだけであった。それを憂いた地元の領主は十年かけて地道な調査を行い、大規模な灌漑計画を義光に提出した。しかしあまりに途方も無い計画であったため重臣たちはこぞって反対する。あきらめきれない領主は義光に直訴。義光はその地に根ざすものが十年かけて調べたものを軽んじることはせず、改めて家臣の中で特に土木の技術に優れた者に調査を命じた。その家臣から成功の見込みありと報告をうけると、義光はためらわなかった。七千四百人からの人夫を集め近隣の城主には、領主の命に従わない者は即刻懲罰に課すとの厳命を下す。領主は義光の行動に感激し三年のうちに成果が出なければ切腹すると公言、見事に義光の期待に応えた。配下の才能を信じ見極めれば、全力でささえる。まさに君の君たる器ではないだろうか。

倉庫課
ブログランキングに参加しています。クリックのご協力をお願いします。⇒banner_02.gif

投稿者 jatehime : 00:00 | トラックバック
2008年07月25日
 ■  マイナー好き

 今年は今一、興が乗らない。理由は様々あるが、やはり大河だろう。幕末という時代がどうしても好きになれない。だが、来年はたのしみである。直江兼続なのだから。誰それ、と思う人に簡単な説明を。元の名前を樋口与六。上杉景勝の近習であり、謙信に才能を認められて名門直江家を継ぐ。豊臣政権下では上杉家の会津移転にともない秀吉自らに米沢30万石を与えられた。石田三成、加藤清正、福島正則、黒田如水、蜂須賀正勝といった秀吉股肱の家臣ですら、20万石を超えない事を考えれば一大名の陪臣に与える封土としては破格である。
 さて、主題は実は兼続ではない。恐らくはその敵役でほんの一瞬恐らく一話か二話ぐらいの登場になるであろう、最上義光である。

倉庫課
ブログランキングに参加しています。クリックのご協力をお願いします。⇒banner_02.gif

投稿者 jatehime : 00:00 | トラックバック
2008年04月03日
 ■  坂の上の雲

松山市を舞台としたスペシャルドラマ「坂の上の雲」がクランクイン

松山市出身の秋山好古・秋山真之・正岡子規3人を主人公に明治という生き方を描いた青春群像小説である。
松山市を舞台にドラマになった作品と言えば「夏目漱石の坊ちゃん」が有名であるが、坂の上の雲にも夏目漱石が登場する。
坂の上の雲は昭和43年(1968年)から47年(1972年)にかけて、4年3ヶ月にわたり産経新聞・夕刊に連載され好評を博した作品で司馬遼太郎が明治という時代に立ち向かった青春を10年の歳月をかけて書き上げた物語である。
NHK放送は90分番組とした全13回放映される予定である。
放送予定 
第1部 2009年秋ごろ予定         
   第1回  「少年の国」
   第2回  「青雲」
   第3回  「国家鳴動」
   第4回  「日清開戦」
   第5回  「留学生」
第2部 2010年秋ごろ予定
   第6回  「日英同盟」
   第7回  「子規、逝く」
   第8回  「日露開戦」
   第9回  「広瀬、死す」
第3部 2011年秋ごろ予定
第10回 「旅順総攻撃」
第11回 「二○三高地」
第12回 「敵艦見ユ」
第13回 「日本海海戦」(最終回)

キャスト
秋山真之 (あきやまさねゆき)本木雅弘            
秋山好古 (あきやまよしふる)阿部 寛
正岡子規 (まさおかしき)  香川照之
正岡 律 (まさおかりつ)  菅野美穂
夏目漱石 (なつめそうせき) 小澤 征
伊藤博文 (いとうひろふみ) 加藤 剛
広瀬武夫 (ひろせたけお)  藤本隆宏
秋山 貞 (あきやまさだ)  竹下景子
佐久間多美(さくまたみ)   松たか子
大変豪華な俳優が勢ぞろいである

制作費も1話4億円と巨額(通常の大河ドラマの1話制作費6000万円ほど)中国・ロシアの大規模なロケが行われている。 

*大変楽しみにしている松山市民より。
ブログランキングに参加しています。クリックのご協力をお願いします。⇒banner_02.gif

投稿者 jatehime : 00:00 | トラックバック
2008年03月19日
 ■  「坂の上の雲」

「坂の上の雲」と聞いて、小説よりも歴史の時間で聞き覚えがある程度の知識しか持ち合わせていませんでしたが、
”NHKが総力をあげて取り組み平成21年(2009年)から3年にわたってこれまでにないスケールで制作し放送…。”
と大々的に宣伝されると少し興味が湧いてくるものです。県外の知り合いからも松山を訪問した際は土産話にドラマの
縁の地など案内して欲しいと頼まれますが、地元に長年在住していながら ドラマに関連した場所がすぐ思いつかないのは
自分だけでしょうか。今回のドラマ化をきっかけとして、道後温泉や正岡子規などのほかに松山の観光ルートの新しい
立ち寄り場所になってくれれば観光パンフレットのアピールにもなると思います。

20080319_01.JPG

20080319_02.JPG

(秋山兄弟生誕地の写真と関連HP http://www.akiyama-kyodai.gr.jp/index.html

総務課

ブログランキングに参加しています。クリックのご協力をお願いします。⇒banner_02.gif

投稿者 jatehime : 00:00 | トラックバック
2008年03月17日
 ■  城下町松山市

一度は松山城天守閣に登らなければ松山市民では無い。
愛媛県の県庁所在地であり、50万人を越える人口を有する四国最大の都市、松山市は城下町である。
市街のほぼ中央に位置する標高132mの山頂にある天守閣の最上階の窓からは、360度広がる大パノラマで松山平野から天気に恵まれれば西日本最高峰の石鎚山、日本一長い半島といわれる佐田岬、また瀬戸内海に浮かぶ島々が見られる。

*松山市の誕生から松山城の歴史

1602年 (慶長7年)伊予国正木(現 松前)城主10万石の大名であった加藤嘉明が関   が原の戦いでの戦功により徳川家康から20万石に加増され、足立重信を普請奉行に任命し二の丸(二の丸歴史庭園)と三の丸(堀の内)を有する広大な平山城の築城に着手し、五重天守として建造された。(現在は三重天主)
1603年 (慶長8年)徳川家康より「松山」と呼ぶこととし、松山という地名が公式に誕 生した。
1635年(寛永12年)7月に松平定行が15万石の藩主となり、以降、松山藩は四国の親藩大名として235年間続き明治維新を迎えた。
1867年(慶応3年)藩主・松平定昭が幕府老中職となる(大政奉還により辞任)
1871年(明治4年)廃藩置県により松山藩は松山県となる。
1873年(明治6年)愛媛県が成立する。
1886年(明治19年)より1945年(昭和20年)にかけて二の丸・三の丸は陸軍省の管轄となり歩兵22連隊の連兵場となる。
1923年(大正12年)松山城(本丸)が久松家へ払下となり、そのまま松山市に寄贈され、市の所有となった。

今でも松山市民は帰郷時、松山城を見ると「帰って来た実感が沸く」といい心の安らぎとなっている。           
松山城を愛する市民より
ブログランキングに参加しています。クリックのご協力をお願いします。⇒banner_02.gif

投稿者 jatehime : 00:00 | トラックバック
2007年11月20日
 ■  男谷信友

 上司のマニアックな人物をとの依頼により急遽とりあげることになりました。
幕末の人で歴史上の接点といえば、勝海舟の従兄弟ということぐらいである。
信友は天保の三剣豪の一人と謡われているが、決して豪傑然とした人物ではなくその人柄とあいまって君子の剣と称されるほどであった。当時としては珍しく他流試合を推奨し望まれればどんな相手だろうと試合をうけ、三本勝負のうち一本は必ず相手に譲り、花をもたせた。しかし逆に信友から花以外の一本をとったものはなくその実力はそこが知れないと言われていた。ある日、信友のもとに一人の若者が尋ねてきて試合を申し込む。信友はいつもどおりにこれを受け相手に花を持たせて帰した。当時すでに日本随一と言われていた信友から一本をとって気を大きくした若者は信友と同門の井上伝兵衛をたずねるが今度は一本をとるどころかこてんぱんにやられてしまう。天狗の鼻を折られた若者はその場で井上に弟子入りを願い出たが井上は「君の剣は荒削りだが素質が十分ある。私に師事するよりも亀沢町の男谷信友先生をたずねなさい。」しかし若者は「亀沢町はすでに訪ねましたが評判ほどではありませんでした。」それを聞いた井上はひとしきり笑うと若者に「きみは男谷先生に軽くあしらわれただけだ。あの人の強さは底が知れない紹介状を書いてあげるからもう一度たずねてみなさい。」半信半疑の若者は言われたとおり再度、信友をたずね井上の紹介状をみせた。一説によればこのときの立会いで若者は、一合も切り結ぶことなく、信友の眼光に気圧され気がつけば道場の床にはいつくばっていたと伝えられている。ちなみに若者の名前は島田虎之助。この後、信友に弟子入りし三剣豪の一人に数えられることになる。氷川きよしの一剣のモデルとなる人物である。
腕に覚えのある剣客を眼力のみで戦意を喪失させる力がありながら、それを誇示することをせず、立会いにおいて相手に一本を譲れる度量の大きさ。かっこいいと思うのは、私だけだろうか。

倉庫課 二十面豚
ブログランキングに参加しています。クリックのご協力をお願いします。⇒banner_02.gif

投稿者 jatehime : 00:00 | トラックバック
2007年06月15日
 ■  軍師列伝 五回目

 一躍、天下に名を轟かした半兵衛だが、武田や織田を筆頭としたあまたの大名の誘いをことごとく断り、領内でひっそりと隠棲していた龍興に城を返すと、あっけなく隠居してしまう。その半兵衛を三顧の礼よろしく、足しげく通いつめ配下に迎えたのが後の豊臣秀吉である。ここでひとつの疑問が。なぜ、半兵衛は武田や織田といった大名の誘いをけりながら、秀吉についたのか。私なりにいろいろ考えて一つの結論にたっした。
おそらく半兵衛には武士たるものかくあるべし、という自分なりの理想像というべきものがあり、生涯をかけてそれを追い求めたのではないか?
ある日半兵衛は、僚友の黒田官兵衛と酒を飲んでいたとき、秀吉の証文を取り出し手柄をふいにされたとぼやく官兵衛に対し、半兵衛はその証文を一瞥すると火にくべてしまう。手柄を立てたときには加増を約した秀吉直筆の証文である。色をなす官兵衛に半兵衛は「武士たるもの働きに見返りを求めてはいけない。あのような証文があれば勤めに日陰ができ君臣の間に溝ができる。君にとっても筑前さまにっとてもよろしいことではない。」と諭した。
半兵衛の理想とする武士のあり方、士は己を知るものの為に死す、ではないだろうか?若かりし頃、稲葉山城を落としたとき織田や武田が半兵衛でなく美濃を欲したとき、ただ、秀吉だけが竹中半兵衛重治を求めた。だからこそ半兵衛は信長の配下ではなくではなく秀吉の直臣として信長に寄騎したのではないだろうか。と私は考える。

倉庫課 二十面豚
ブログランキングに参加しています。クリックのご協力をお願いします。⇒banner_02.gif

投稿者 jatehime : 00:00 | トラックバック
2007年06月14日
 ■  軍師列伝 四回目

 やはりわが国で軍師といえば、竹中半兵衛重治である。
美濃の生まれであり、道三、義龍、龍興の斉藤氏三代に仕えた。龍興は蝮と称された祖父、その蝮を倒した父と同じ生まれとは思えないほどの昏君であった。その龍興の取り巻きがある日、登城中の半兵衛に小便をぶっかけるという暴挙におよんだ。およそ武士らしくない半兵衛を嘲弄してやろうとの思惑があったのだろうが、それにしても今日子供ですら考え付かないほどのレベルの低さである。そんな人間を回りはべらしている龍興の器の小ささも推して知るべし、というところか。一方、馬鹿にされた半兵衛はそのままにしてはおかなかった。まず、城に出仕する弟に仮病を使わせ、病気見舞いと偽り大量の見舞い品とともに半兵衛を含め十数人が城にはいる。夜半、城のものが寝静まった頃を見計らい見舞い品に偽装させて持ち込んだおのおのの武器を取り出し龍興の寝所を急襲。まんまと龍興を人質にとり、城外に伏していた舅であり美濃三人衆と称された安藤氏の手勢を招きいれわずか一晩で、難攻不落とうたわれた稲葉山城を落としてしまう。
 続く。

倉庫課 二十面豚
ブログランキングに参加しています。クリックのご協力をお願いします。⇒banner_02.gif

投稿者 jatehime : 00:00 | トラックバック
2007年06月13日
 ■  軍師列伝 三回目

 戦争は最大級の勝利を得たとしても国家的不幸である。
 今回は自らが参謀総長という軍の要職にありながら戦争を否定する名言をのこしたドイツのモルトケである。 1866年普墺戦争では、わずか七週間でオーストリアを屈服させる。このときモルトケは、わが生涯においてこれほど暇な戦争はないといったと伝えられる。それもそのはずで、この戦争に望む前に彼は入念な準備を行いあるとあらゆる事態を想定しそれに対する対策を練り万全の体制ととのえていたのだから。また1870年に起こった普仏戦争ではフランス皇帝を捕虜とし戦争開始からわずか四ヶ月でパリに入り戦争を終結させている。
 まさに神算鬼謀とも言うべき実績ではないだろうか。しかし天の配剤の皮肉であろうか、だれよりも戦争を嫌う男にだれもまねできない軍事の天才的手腕をあたえたのは。

倉庫課 二十面豚
ブログランキングに参加しています。クリックのご協力をお願いします。⇒banner_02.gif

投稿者 jatehime : 00:00 | トラックバック
2007年06月12日
 ■  軍師列伝 二回目

 張良とくれば陳平であろう。彼を語る上で避けられないのが、黒い噂の数々である。曰く他人の出世の口利きに金品を要求した。賄賂?曰く兄嫁とねんごろになった。うら!!っ・・・じゃなかった。不倫?当然、噂の数々は劉邦の耳にもその噂は届き陳平を推挙した部下を呼びつけ烈火のごとく怒った。しかし部下はその怒りを柳に風とばかりに受け流し、こうきり返した。曰く「道徳家をという命であればそのお叱りは、至極もっともですが、大王は私に天下の大才をとのご下命でした。だからこそ私は陳平を推挙したのです。噂の真偽はともかくその才能は私の命に代えてもたしかなものでございます。天下統一という大事をまえにして、個人の品性などという小事にこだわるというなら是非に及びません。事の次第を陳平に話し、彼ともどもお暇をいただきたいと思います。」
 がつんとやられて何か感じるものがあったのか劉邦は以後、陳平を側近として重用し陳平も劉邦を的確に補佐し天下統一におおきく貢献することになる。さらに劉邦没後の呂一族の専横をくぐりぬけ呂后が没するとすみやかにその一族を誅殺し天下の権を劉氏にかえすのであった。しかし、実績だけみれば張良と比すべきものがあるというのに名前で損をしていると思うのは私だけだろうか。陳平ねぇ・・・。

倉庫課 二十面豚
ブログランキングに参加しています。クリックのご協力をお願いします。⇒banner_02.gif

投稿者 jatehime : 00:00 | トラックバック
2007年06月11日
 ■  軍師列伝 一回目

 軍師といわれて、真っ先に思い浮かぶのは漢の張良である。帷幕の内にて計をめぐらし千里の果てで勝を決すると評された人物だ。病弱だった為に軍勢を率いることはなかった自ら敵の陣営に乗り込み反間、離間を駆使して敵陣営を戦う前から骨抜きして戦を有利にすすめたとされる。また劉邦の快進撃を支えた伝説の名将韓信を推挙したのも張良であるとされている。股潜り、ほら吹きと馬鹿にされ項羽陣営においても、門番程度の役職でしかなかった男の才能を見出した眼力には神がかり的なものを感じてしまう。
 一度会うことができたとしたら聞いてみたいものである。
 「どうすれば、あなたと同じ視線で世界を観ることができるのですか。」、と。

倉庫課 二十面豚
ブログランキングに参加しています。クリックのご協力をお願いします。⇒banner_02.gif

投稿者 jatehime : 00:00 | トラックバック
2006年12月18日
 ■  大河

 功名ヶ辻が最終回を迎えた。私的には種崎浜はやらないだろうなと思っていたのでちょっとびっくり。まあまあ楽しかった。それにくらべてテレ朝の太閤記はすごく、期待はずれ。展開が速すぎてついていけない。秀吉が主人公のために秀吉を必要以上にいい人に見せようとする意図が見え見えで、せっかくの中村橋之助さんの演技も現実と台本のギャップを埋めるためのいいわけじみていて、何だかなって感じがした。
 やっぱり歴史物をやるときは、チャンバラ以外は一年間くらいの時間をかけて、じっくりやってほしいものだなと思う。
倉庫課 二十面豚

ブログランキングに参加しています。クリックのご協力をお願いします。⇒banner_02.gif

投稿者 jatehime : 00:00 | トラックバック
2006年11月30日
 ■  最終回 天下人(後)

 信長が本能寺で倒れた後、あとを継ぎ天下をとったのが秀吉である。しかし、秀吉に対する私の評価は辛い。たしかに秀吉は天下統一という偉業をなしとげた。しかしそれだけである。秀吉が天下の主として大阪にあるころ、日本は常に殺伐としていた。続発する一揆、朝鮮出兵。国土の荒廃は目を覆わんばかりであった。やりたい放題やりつくして、秀吉が冥土に旅立つとその後をとったのが家康であった。
 織田がつき羽柴がこねし天下餅、座して食うは家康。戦国時代を端的に表した詩であるがまさしく言い当て妙ではないだろうか。
 およそ十年にもわたる、信長と本願寺の血で血を洗う抗争の末、隠然たる力を持っていた一向宗は衰退をよぎなくされ、秀吉の手前勝手な政策により国土は荒廃。農村は一揆を起こす力すらなくなっていた。誰もが疲れていたのであろう、乱世という時代に。そうでなければ、いくら実力が一等ぬきんでているといえども、すんなり家康が天下を治めることはできなかったのではないだろうか。
 さて家康であるが、この人は実像がつかみづらい。後世で影武者説がでるほどに、まるで別人に見て取られる。なぜなら徳川が続いた250年の間、神としてあがめられ、明治政府が自らの正当性を主張するために悪人として貶められたからである。
 私の評価としては、信長より革新性というてんにおいては劣るが、胆力という点においては他の追随を許さない人間というところにおちつく。
 関ヶ原の合戦のあとそのまま、豊臣を滅ぼすことも不可能ではなかった。しかし、家康は大阪城二の丸に入っただけでさっさと関東に帰り、あまつさえ、生前の太閤との約束に従って孫の千姫を嫁として豊臣にさしだしている。そして、じつに十数年の間豊臣が大阪にあることをゆるした。
大阪の陣のきっかけとなった、言いがかりとしかいえない相国寺の鐘事件を見てもわかるように家康の意思が豊臣滅亡にあったことは、明白である。しかしそこにたどり着くまでに、かかった歳月を考えれば、人間五十年と謡われた時代、関ヶ原のときに家康はすでに六十過ぎ、そこから十年以上も待つことのできる胆力は並ではない。

倉庫課 次長の影武者

ブログランキングに参加しています。クリックのご協力をお願いします。⇒banner_02.gif

投稿者 jatehime : 00:00 | トラックバック
2006年11月29日
 ■  第七回 天下人(前)

 そろそろ長文に疲れてきたので八回で終わりにさせてください。
 泣き言がすんだようなので最終回にふさわしく、信長、秀吉、家康の三人の天下人をばっさりやらせていただきます。
 まずは、織田信長。尾張の守護職斯波家の家老織田信秀の嫡男としてこの世に生をうける。若い頃から奇矯な行動と奇抜な衣装を好み尾張のうつけ殿として近隣に名を知られる。
 しかしそのころから、英雄たる片鱗はあったのであろう。実父たる信秀は、うつけの信長を廃嫡して聡明と評判の弟信行をたてよ、という家臣の声に耳をかすことを一切しなかたし、斉藤道三は家臣にいずれ自分の息子たちは信長の城門の前に馬をつなぐだろうと、もらした。ちなみに馬をつなぐというのは、配下になるという意味である。さらに越前で朝倉氏の覇権を絶対的なものにした大立者である朝倉宗摘はいまわのきわに、死を厭いはしない。しかし叶うことなら後五、六年生き延びて、尾張の若殿の行く末を見たいものだといいのこしている。
 しかして、信長は家督をついでからまさしく風雲児とよべる活躍をみせる。その偉業はあまりにも有名であるため、ここで改めて語る必要がないほどである。
 私は信長という人間の本質は、手堅さにあると考える。信長の生涯において、冒険とよべるのは桶狭間があるのみで、あとは相手より多数の兵力をそなえ、重臣を調略し勝つ条件をそろえ勝ちやすきに勝つ戦しか行っていない。信長と敵対したものは、多数そろえられた鉄砲や三間半の長柄槍、兵農分離された職業的兵士といった時代の最先端の技術ではなくむしろ信長の手堅さに敗れていくのであった。
 しかし、万事において慎重な信長も生涯に一度だけ油断をする。本能寺の変である。
 この本能寺の変、世間では黒幕をめぐって諸説があるが私は光秀の単独犯であると考えている。理由はこうだ。
 光秀という男、信長に仕えるまでたびたび主を変えている。最初は朝倉義景、次に足利義昭。最後に信長、都合三回。このことから、光秀は機会をとらえて上昇することを望む人間であると推測される。そんな光秀にとって、本能寺は絶好の機会であった。織田家の基盤である畿内は空白状態。織田家が誇る五大軍団のうち三軍はそれぞれ、毛利、上杉、北条といった土着の大勢力と大戦の真最中。そんななか信長が嫡子信忠とわずか200程度の馬廻りとのこのこやってきたのだ。好機といわずしてなんというのだろう。
 かくて信長は生涯にただ一度の油断に本能寺でその生涯を終えることになる。

倉庫課 次長の影武者

ブログランキングに参加しています。クリックのご協力をお願いします。⇒banner_02.gif

投稿者 jatehime : 00:00 | トラックバック
2006年11月15日
 ■  第六回 立花宗茂

この人はサラブレットである。実父は高橋紹雲、養父は立花道雪。ともに斜陽の大友家を支えた名臣である。氏より育ちというが氏も育ちも当代一流の父をもっていた宗茂は双方の父の名を辱めることのない名将に成長する。秀吉は宗茂のことを西の立花、東の本多。家康の家臣で、家康には過ぎたるものが二つあり唐の頭に本多平八郎忠勝と当時詩にも謡われ、生涯60以上の合戦に参加しながら一度も戦傷を負うことがなかった武神と並び評したほどであった。
 秀吉の九州征伐以後、宗茂は豊臣政権内の一大名として数々の戦に参戦しその勇名が虚名でないことを示す。
 やがて宗茂に人生の転機が訪れる。1600年、関ヶ原である。
 豊臣を守らんとする三成と徳川の天下を目指す家康。圧倒的に優勢なのは家康であったことは衆目の一致するところである。一般的に豊臣恩顧とよばれる大名のほとんどが三成を憎むことで、大恩ある秀吉を裏切るという後ろめたさをごまかし家康についたのにたいして、宗茂は滅亡のふちから救い上げ、あまつさえ大名にまで引き立ててくれた秀吉の恩に報いるために西軍につく。結果、宗茂は先祖伝来の土地を失うことになった。
 だがやはり、宗茂は真の名将であった。領地を失い浪人となった宗茂をその家臣たちが支えていく。これは本当に稀有なことである。関ヶ原が終わり多くの大名が取り潰しにあい、多数の浪人が巷にあふれた。生き残った大名たちは、そんな浪人たちのなかからこれは、と思った人物を家臣に向かいいれる。例に挙げるなら、山内一豊が織田家の名家老としられた百々綱家を家老待遇で召抱えたように。立花家でそれと知られた人たちならば、引く手あまたであったはず。しかしかれらは、そんな仕官の声には耳を貸さず、自らが野良仕事をして宗茂を支えつづけた。
 やがて、そんな稀有な主従の話が時の将軍秀忠の耳にとどく。宗茂に興味をもった秀忠は本多正信に宗茂と会うように命じる。
 対面の日、向かい合い座っている正信と宗茂に茶を運んできた家臣の一人が粗相をしでかす。正信に茶をぶっかけてしまったのだ。あわてて平伏する家臣を横目に宗茂は、「このものは、槍を持てば当家随一の豪の者。今はそれがしの不徳によって侍女の真似事をしていますが、本来は戦場にある男なれば、不調法の段ひらにお許しを。」といって頭をさげた
 これには正信のほうが、狼狽した。今は落ちぶれたとはいえ、十三万石の大名だった男である。しかも秀吉に激賞されたように武士としての矜持も誇りも誰よりも高い。それが将軍の側近とはいえ、軍功とはまったく無縁の文治の徒にすぎない自分に何のわだかまりもなく頭を下げることができるのだ。それも家臣の些細な失態を詫びるために。
 宗茂の株が正信の中で上がったのはいうまでもない。さらには、秀忠も宗茂の人柄にすっかりまいってしまい。奥州に一万石の知行地をあてがい、大阪の陣以降、旧領である筑後柳川十三万石をあたえる。
 人を動かすのは至誠なり。関ヶ原の合戦の結果に宗茂主従は一言半句すら不平不満をもらしたことはない。起こったことは起こったこととしてとらえ、家臣は主君の為に主君は家臣の為におのおのができることをする。その姿が人々の感動を呼びやがて旧領復帰という奇跡をおこすことになる。

倉庫課 次長の影武者
ブログランキングに参加しています。
クリックのご協力をお願いします。⇒banner_02.gif

投稿者 jatehime : 00:00 | トラックバック
2006年10月30日
 ■  第五回 毛利元就

 戦国時代、あまたの謀略巧者を生み出せど、毛利元就に比類するものは、存在しない。
神算鬼謀と評しても過言ではないといえるのでは、ないだろうか。
 大内氏をのっとった陶氏を厳島におびき出し見事に打ち破った厳島の合戦。このときは自分の重臣を内応させたと見せかけ、さらに瀬戸内水軍衆を味方に引き込むことで、勝利をおさめた。圧巻だったのは、尼子氏にしかけた謀略の数々である。月山富田城にあり山陰方面に隠然たる、勢力を誇る強大な尼子氏にたいして元就はまず、新宮党に目をつける。
 新宮党といえば、尼子氏最強の精鋭部隊でその強さは京の都にまで聞こえるほどであった。元就は、まず尼子の領内で新宮党が晴久(尼子家当主)に不満をもっているという噂を流す。その噂が蔓延したころを見計らい、新宮党が毛利に内応し晴久の首をとるという内容の偽書をつくり、晴久の手に渡るように仕向けた。兎徒死して走狗煮られ、高鳥尽きて良弓隠れ、敵国滅びて謀臣滅ぶという故事にあるように新宮党の戦闘力に頼もしさと強すぎる力ゆえの不安を抱いていた、晴久は新宮党を誅殺する。まさに芸術ともいえる謀略であった。たんに新宮党を壊滅させ尼子の戦力を低下させるだけではなく、他の重臣たちに晴久に対する不信感を植え付け、内応という形で開花させる下地をつくる、きっかけを築くことに成功している。この後尼子は毛利の侵略に対して有効な手立てを講じることもなく野戦で破れ、籠城すれば重臣たちが雪崩を起こすがごとくも毛利がたに寝返り、抵抗らしい抵抗をすることもなく滅亡している。
 中国地方に確固たる覇権を確立した元就であるが、その過程において最も気をつかったのは、人の結束であった。毛利は評定を開くとき、元就を中心に円をえがくようなかたちをとる。上座、下座もうけず譜代、外様の区別をしないという心遣いがみてとれる。元就自身が人の心を操る達人であるため、人の心の闇の部分が誰より鮮明に見えたのだろう。わざわざ遺言に毛利は天下を望まず。と言い残したほどである。
 家は人によって興り、人によって滅ぶ。どのように強大な力を有していようとも、そこにある人しだいでたやすく崩れ去る砂上の楼閣のごときもの。逆にあきれるほど小さくても人しだいで、巨象もかみ殺すことができる。
元就は自身の経験からそのこと誰より理解していたのでは、ないだろうか

倉庫課 次長の影武者
この記事が面白かったらbanner_02.gifをクリック!!

投稿者 jatehime : 00:00 | トラックバック
2006年09月28日
 ■  大好き戦国武将

 第四回
 上杉謙信
 いわずと知れた越後の軍神。不敗の聖将そして、私を歴史の世界に引きずりこんでくれた人物。あれは、私がまだ中坊だったころ某有名歴史ゲームで、他を寄せ付けない圧倒的な戦闘力を目の当たりにした私は俄然、謙信に対する興味をかきたてられ、関連書籍を読み漁った思い出がある。信玄と繰り広げた川中島の合戦。織田軍を鎧袖一触で蹴散らした手取川の戦い。ゲームのあの強さは、そういった史実に裏打ちされたものだったんだなぁと感心したものである。
 謙信は自らを毘沙門天の化身になぞらえ、その生涯において常に誰かの為に戦いつづけた。その生き様は宿敵だった信玄や北条家中興の祖、北条氏康にまで認められていた。英雄といても差し支えない二人が二人とも、いまわのきわに息子にむかって、万が一、家が滅ぶことがあれば、上杉を頼れと。自分が死ぬときに息子を預けられる男。人としてこれに勝る誉れはないであろう。自分もそんな人間になりたいものである。

倉庫課 次長の影武者
この記事が面白かったらbanner_02.gifをクリック!!

投稿者 jatehime : 00:00 | トラックバック
2006年09月27日
 ■  大好き戦国武将 第三回

小早川隆景
 この武将には、特別思い入れがある。あれは、高校二年のとき当時の大河ドラマ「秀吉」
主演が竹中直人のこのドラマ、大河のくせに安っぽいセットとストーリーの荒唐無稽さで私の周りでは、ちょっとした話題になっていた。ある回で秀吉が吉川広家と隆景に黄金の茶室を自慢するシーンがあって私が知人に「高松城攻めでは、完無視だったのにあんなシーンで両川初登場ってどうよ。」と聞くと知人はきょとんとした顔で、「両川ってなに。」と聞かれ、その後のやり取りで私が当たり前に誰でも知っていると思っていた歴史にかんする事柄は、じつはかなりディープな領域に属するということをおもい知らされた。
 さて小早川隆景。戦国屈指の謀将、毛利元就の三男。子供の頃に兄である吉川元春と雪合戦をやったとき、一気呵成に攻め込んで勝利を得た兄にたいして、隆景は伏兵をもちいて兄に土をつけた。これの結果で元就は、武勇を尊ぶ山陰地方に元春。知略を尊ぶ山陽地方に隆景をそれぞれ養子に出すこと決めたといわれている。やがて跡取りであった、隆元が夭逝しその子、輝元が若年であったため隆景と元春がこれを補佐することになる。この政治形態を吉川、小早川、それぞれの姓に川の字があったため毛利の両川体制と呼ばれるようになる。
 本能寺の変のあと、大返しを敢行した秀吉の背後を毛利は襲うことをしなかった。長年にわたって、領地を侵略してきた、憎むべき敵である。しかも和議を結んだのは、信長であって秀吉とではない。よって信長が横死ため、和議も白紙同然である。そんな状況なら毛利家家中に強硬論がでないわけがない。それをおさえたのが、隆景である。後年秀吉の軍師として名をはせた黒田如水をして判断に誤り無しと言わしめたほどの神がかった状況分析能力をもつ隆景には、観えていたのだろう。たしかに後背を襲えば秀吉の首級は、たやすくあげることができる。しかし、その後はどうなる。永年にわたる戦いで国人衆の負担ははかりしれない。それに比例して不満は爆発寸前である。とても遠征ができる状況ではない。一方中央では、信長という絶対的な指導者とその後継者であった信忠をいっぺんに失い空洞化しているが、いずれ柴田、丹羽、徳川、明智、羽柴なりがとって変わることは、目に見えている。そのとき毛利が羽柴を討っていれば、いずれの勢力にたいしても、侵攻の大義名分をあたえることになる。そうなれば、毛利は今度こそ支えきれない。逆にここで秀吉に恩を売れば、秀吉が勝ちを拾えば毛利は大恩人となり、秀吉政権において重要なポストを占めることができる。仮に敗れたとしても、秀吉を盾として力の回復を図り場合によっては、秀吉を討つことで毛利の地力をもって有利な条件で敵勢力と和議を結ぶことができる。
 幸いに秀吉は勝ちを得て、隆景の読みどうり、毛利は上にも下にも置かれないほどの厚遇をうけ、隆景自身も五大老の一人に抜擢される。
 最後に隆景の言葉で印象に残っているのをひとつ。
急いでいるときほど、ゆっくりと。なぜなら、急ぐということは、重要な用件であり、えてして間違いが許されないものである。だからこそあわてずにことに望むことが、求められる。

倉庫課 次長の影武者
この記事が面白かったらbanner_02.gifをクリック!!

投稿者 jatehime : 00:00 | トラックバック
2006年07月27日
 ■  大好き戦国武将 第二回

徳川秀忠。
いやはや、なかなか歪んでいます。数多いる戦国武将のうち、よりによって何故に、秀忠なのか。例によって開き直りです。では、いざ参る。
 徳川秀忠。家康の三男にして、二代目征夷大将軍。この人を語るうえで欠かせないのが関ヶ原の大遅刻である。家康は東海道を豊臣恩顧の大名たちを引き連れて、秀忠は徳川勢と共に中山道を。このとき秀忠は信州上田で稀代の謀将、真田昌幸の篭城戦術に翻弄され関ヶ原に着いたときには、決戦は終わっていた。おおよそ、三万八千の軍勢。しかも、元亀、天正の頃から武田信玄や北条氏政、浅井朝倉といった強豪たちに家康の采配のもとに戦った兵を擁しながらの大遅刻は前代未聞の大失態である。だが、これは家康と秀忠との間であらかじめ決められていた狂言ではないだろうか。と私は思う。理由はいくつかある。
 まず、秀忠には、優秀な兄弟、即ち後継者としての資格を持つライバルがいた。しかもとびきり強力な兄が。次男の結城秀康。十七歳のとき、大阪城内の馬場で自分に馬を寄せてきた秀吉の御家人を、たとえ殿下(秀吉)の御家人といえども、秀康に馬を並べる法はありや。といって、一刀のもとに切り捨て天下に武人としての矜持を示した猛将であり、徳川譜代はおろか、豊臣恩顧の大名からも絶大な人気を誇る。
 秀康の絶大な人気を考えれば、秀忠の地位は非常に危ういものであった。秀忠をして後継者たらしめているのは、ひとえに父、家康がそう定めているからに過ぎない。よって、家康が後継者指名を白紙に戻そうとしたときに、体をはって翻意を促がしてくれる後ろ盾を持たない秀忠は、なにを置いても家康の意にそうように、行動しなければならないはずである。
 次に中山道の人選である。本多正信、大久保忠燐、榊原康政。いずれも、万石取りの重臣であるがこの中で、榊原康政が問題となる。徳川四天王の一人であるが、徳川と密接な関係にあった、酒井、本多、駿河の名門、井伊などに比して榊原は郷士である。閉鎖的な徳川家中においていっかいの郷士たる康政が四天王と呼ばれあまつさえ、万石取りになれたのは、本人の能力もさることながら、誰あろう秀吉のおかげである。
 小牧長久手の戦いのとき思いつく限りの悪口雑言で秀吉を罵倒した康政を、秀吉は和睦の使者とし、陣中に向かえると康政の忠義や武勇を褒めちぎり、官位をあたえる。
 官位が上がればそれ相応の領地が必要となり、吝嗇な家康としても世間の手前、二万石の大名に抜擢する。その後もおりにふれては、康政を気にかける。そして、家康が関東に国替えになったときに、秀吉は康政の加増を家康に命じ、康政は館林十万石を得る。
 一連の康政贔屓が秀吉一流の諜略であることは、いうまでもない。鉄の結束を誇る家康家臣団に亀裂をいれようという、意図がみえみえである。
 幸い康政は、徳川に対する忠義一途の人であったが、家康との間は完全に冷えきっていた。晩年、体を壊した康政をみまった使者に対して家康の使者には、布団の中から、拙者も年老いて腸が腐り申した。と暴言を(康政は使者の本多正信に対して日ごろから、味噌勘定しかできない、腸腐され者と広言して憚らなかった)吐き、秀忠の使者に対しては、正装に着替え使者を上座において、秀忠のみまいの言葉にたいしてお礼を述べたとされている。
 信玄、信長といった戦巧者の采配を見聞し、秀吉の謀略の凄まじさを知り尽くした家康にとって、たとえ譜代の重臣といえども信用の置けないものを戦場につれていくことは、出来なかったのではないだろうか。
 最大の論拠としては、やはり関ヶ原の合戦後も依然として、秀忠が後継者としてあり続けたことにある。戦局を左右できるほどの大兵力を擁しながら、肝心要の戦に遅刻する前代未聞の大失態である。秀忠以下、首脳陣は全員切腹しても追いつかないほどである。それが誰一人として、お咎めなしでは間尺が合わない。
 さらに秀忠が率いた三万八千が徳川政権を恒久的なものにするための政争の場において
他の大名たちの不満をねじ伏せる強力な抑止力になったことを考え合わせれば、やはり遅刻は狂言であったと考えるのが妥当であろう。
 そう考えると秀忠の人物像がみえてくる。父親に従順な恐妻家という世間一般のイメージではなく。名よりも実を取るというよりも、実の為に名を捨てる即ちその時々においてもっとも重要なことをためらうことなく、選ぶことのできるリアリスト。しかし、けっしてワンマンというわけではなく、部下の意見を虚心で聞くことができ、その才能をいかんなくふるわすことのできる器量。なかなか魅力的な人物に思えるのは、私だけだろうか。
倉庫課 次長の影武者
この記事が面白かったらbanner_02.gifをクリック!!

投稿者 jatehime : 00:00 | トラックバック
2006年07月26日
 ■  大好き戦国武将 第一回

石田三成
戦国武将と銘打って信長、家康を無視していきなり、三成を取り上げるあたり、自分でも歪んでいるなぁと、思わないでもないが好きなものは好きなので、仕方ないと開き直ってたりする。でわ、いざ参る。
石田三成。近江の土豪、石田家の次男。幼い頃、寺で修行中、偶然立ち寄った秀吉が疲労困憊なのを見て最初は茶碗いっぱいの水を。それを飲み干し、呼吸を整えた秀吉に今度は茶碗半分ぐらいの白湯を。白湯を飲み干し、心身ともにリッラクスした秀吉に今度はきちんとした作法に則っり入れたお茶をだし、人の欲するものを慮り、それを先んじて実行できる、行動力と頭の回転の速さを、秀吉に認められ小姓として取立てられた。あまりに有名なエピソードであるがおそらくは、創作であろうと思われる。なぜなら時期的には、浅井を滅ぼし信長から近江の差配をまかされ、城を長浜に移したぐらいである。このときの秀吉は金ヶ崎で見事に殿を果たし、武将として天下に名前を売り出したころである。常識で考えてみよう。百姓あがりながら、柴田、林、佐久間ら、織田家譜代の重臣を差し置いて近江を領することになった、織田家随一の出頭人。金ヶ崎で勇名を馳せた羽柴秀吉が寺にやってきたのだ。小坊主に接待役を任せるわけがないだろう。だが、後世にこのようなエピソードを創作されるほど、頭がずば抜けてよかったことは、歴史が証明する事実である。例えば、朝鮮で豊臣軍が戦を続けられたのは、ひとえに三成が指揮した補給部隊のおかげである。三成でなければ、戦線を維持することはおろか、あまたの将兵が生きて日本の土を踏むことは、適わなかったであろう。
 私が三成を好きなのは、ずば抜けた頭のよさに憧れるミーハーな部分と、戦国時代の武将には、珍しい潔癖な理想主義者な点にある。三成の旗印、大一大万大吉。一人はみんなの為にみんなは一人の為に力を尽くせば、天下は幸せになる。おおよそ、そのような意味合いであるが、三成はその理想を全身全霊で体現させようとしていた。あまり、知られていないことだが、秀吉が天下の主だった時代は庶民にとって生きにくい時代であった。そんななか、三成は自分の領内において、善政をしきたいそう庶民から慕われていたそうである。
 しかし、自らの長所ともいうべき頭のよさと、理想が三成自身を破滅に導くことになる。
頭がよすぎるがゆえに、他人の意見を聞くことがなく、潔癖であるがゆえに融通がきかなかった。そのため、豊臣政権内において人望を失い、結果、関ヶ原において、相手より大軍でしかも先んじて高所を押さえ、なおかつ、包囲に成功するというこれ以上はないという好条件を整えながらも諸侯の寝返りにあい、一敗地にまみえることになる。だが、負けたとはいえ、三成が傑物であることにはかわりない。伊吹山の山中から京の刑場へと向かう途中喉の渇きを訴え、白湯をたのんだ三成に兵士は山中だから白湯はない、かわりに干し柿があるからそれで、我慢してもらえないだろうか。すると三成、干し柿は胆の毒だと聞く。自分は体が丈夫なほうではないので、いらないと。せっかくの好意を無にされた兵士は、もうすぐ首をはねられる人間が健康を気にしてどうするのかとあきれた。三成は、真の大丈夫はたとえ首をはねられることになっても、最後の瞬間まで命を粗略にしないものだと。
 この話を聞いたときの感動を今も忘れていない。命を懸けることと、命を軽く見ることは、同じように見えてまったく異質のものであると、初めてきづいた。真に命を懸けた人間はその重さゆえに最後の最後まで決してあきらめないものだと。
倉庫課 次長の影武者
この記事が面白かったらbanner_02.gifをクリック!!

投稿者 jatehime : 00:00 | トラックバック