2013年11月06日
 ■  隠れた良将

鍋島直茂
?誰?
ナベシマナオシゲ
化け猫騒動、葉隠れで有名な佐賀藩の藩祖
一般的には主家を乗っ取った悪人と思われている
元々、主君竜造寺隆信の右腕として知られた存在であり竜造寺家が五州二島の太守と謳われるようになったのは直茂の手腕による事が大きい。
立花道雪は、敵である直茂を
「天晴れ鍋島は智勇仁の備わった大将である」
と評した。
隆信は領地が拡大するにつれ酒色に溺れるようになったが、直茂はそんな隆信を諫言しつづけた。しだいに隆信は直茂を疎んじるようになり、最終的に直茂の諫言を無視して行われた沖田畷の戦いで隆信自身の首をあげられる結果となる。
戦国時代、合戦は日常茶飯事であったが大名が首をあげられることは稀であった。
ゆえに、沖田畷の敗戦は竜造寺家にとって前代未聞であり、危急存亡の危機となる。
そんなおり、敵方の島津が隆信の首を持ってやってくる。
これは、わが国の内情を偵察しに来たに違いないと察した直茂はあえて自分では対応せず部下に
「隆信の首をわざわざ送っていただいた事には感謝します。しかし合戦で討ち死にした不運の首をいただいても迷惑なのでどこかに捨てて行って下さい」
と言わせた。弱ったのは使者のほうでまさか、大名首を捨てて帰るわけにもいかず高瀬の願行寺に葬って帰国した。事のあらましを聞いた島津家は当主が討たれたとはいえ直茂がいる限り竜造寺侮り難いとみて、佐賀侵攻を思いとどまった。
隆信の子、政家は一連の直茂の行動を高く評価し、自分に代わって竜造寺の指揮を執るように直茂に働きかけ、家臣団もそれを支持し望んだ。
全権を譲りうけた直茂は、表では島津に降伏するも裏では秀吉に九州遠征を働きかけ見事に竜造寺家の旧領を回復する。
秀吉は直茂に竜造寺にとって代わることを強く勧めたが、直茂は竜造寺家の家臣であると言って譲らなかった。
さらに関ヶ原の戦いの時には、東軍の勝利を予見し合戦に先んじて尾張方面の米を買占めその目録を家康に献上し、息子の勝茂を合戦が始まる前に戦線から離脱させている。
関ヶ原の戦い以後直茂は名実ともに佐賀藩の藩主となったが、その生涯において自ら藩主を名乗ることは無かった。だから佐賀藩の初代藩主は息子の勝茂であり、直茂は藩祖と呼ばれる。
佐賀藩を立ち上げた後も直茂は竜造寺家に対し強権をもちいるようなことはせず、穏やかに緩やかにその影響力を薄め、平和的に竜造寺から鍋島への禅譲を行った。
営業課

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投稿者 jatehime : 2013年11月06日 08:53

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