2008年07月28日
 ■  さて本題

 最上義光。伊達政宗との対比で奸知に長けた陰険な人間として語られることの多い彼だが実際は、正宗をはるかに凌駕する、日本史上稀な英雄である。
 義光は謀略を好んだが、それは正面衝突による兵の損失を嫌ったからにほかならない。義光の言葉の「大将と士卒は扇のようなものだ。要が大将、骨が物頭、兵が紙である。どれがかけても用をなさないのだから、士卒は我が子のようなものだ。」からもそのことがさっせられる。またその姿勢が鉄砲という兵器を注目させ上杉侵攻の時に二千挺という数を揃えることができたのではなかろうか。時代が違うとはいえ、近畿に一大経済圏を築いた信長が、武田侵攻時にかき集めた鉄砲が三千だったことを考えれば中央から、離れた山形で二千を揃えられたということは、驚嘆に値する。
 また義光は戦国時代の人の中で民を大事にすることでは、他の追随を許さない人物である。ある家臣が、居城である山形城に天守閣を築いてみたらと進めたところ義光は「仁義を持って家臣、領民をいたわることこそあらゆる計略に勝る。天守閣など防衛に無意味なものをたて、領民に負担をかけるべきではない」と答えたとされる。
 義光は戦場においては、猛将であったが敗走する敵を追撃するようなことはせず滅ぼした家の遺臣を召し抱え、遺臣たちが望めば家の再興を認めた。また優れた人物を知ると配下に加えることを熱望し勧誘を怠らず、その人物の好みに合わせた条件を提示するのが常だったとされる。そのため義光に内応するものが多かったという。また戦において常識だった苅田狼藉は決して認めなかったといわれている。
 江戸期における義光の評価は柔軟で非道を嫌い勇猛であるが邪悪ではなくまさに君の君たる器である。と評されている。
 それを裏づけるのが、北楯大学堰であろう。現在も庄内平野の農業を支えるこの堰は義光最大の功績であろう。もともと最上川左岸は平野であるが水利が悪く雑木林とまばらな水田があるだけであった。それを憂いた地元の領主は十年かけて地道な調査を行い、大規模な灌漑計画を義光に提出した。しかしあまりに途方も無い計画であったため重臣たちはこぞって反対する。あきらめきれない領主は義光に直訴。義光はその地に根ざすものが十年かけて調べたものを軽んじることはせず、改めて家臣の中で特に土木の技術に優れた者に調査を命じた。その家臣から成功の見込みありと報告をうけると、義光はためらわなかった。七千四百人からの人夫を集め近隣の城主には、領主の命に従わない者は即刻懲罰に課すとの厳命を下す。領主は義光の行動に感激し三年のうちに成果が出なければ切腹すると公言、見事に義光の期待に応えた。配下の才能を信じ見極めれば、全力でささえる。まさに君の君たる器ではないだろうか。

倉庫課
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投稿者 jatehime : 2008年07月28日 00:00

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