信長が本能寺で倒れた後、あとを継ぎ天下をとったのが秀吉である。しかし、秀吉に対する私の評価は辛い。たしかに秀吉は天下統一という偉業をなしとげた。しかしそれだけである。秀吉が天下の主として大阪にあるころ、日本は常に殺伐としていた。続発する一揆、朝鮮出兵。国土の荒廃は目を覆わんばかりであった。やりたい放題やりつくして、秀吉が冥土に旅立つとその後をとったのが家康であった。
織田がつき羽柴がこねし天下餅、座して食うは家康。戦国時代を端的に表した詩であるがまさしく言い当て妙ではないだろうか。
およそ十年にもわたる、信長と本願寺の血で血を洗う抗争の末、隠然たる力を持っていた一向宗は衰退をよぎなくされ、秀吉の手前勝手な政策により国土は荒廃。農村は一揆を起こす力すらなくなっていた。誰もが疲れていたのであろう、乱世という時代に。そうでなければ、いくら実力が一等ぬきんでているといえども、すんなり家康が天下を治めることはできなかったのではないだろうか。
さて家康であるが、この人は実像がつかみづらい。後世で影武者説がでるほどに、まるで別人に見て取られる。なぜなら徳川が続いた250年の間、神としてあがめられ、明治政府が自らの正当性を主張するために悪人として貶められたからである。
私の評価としては、信長より革新性というてんにおいては劣るが、胆力という点においては他の追随を許さない人間というところにおちつく。
関ヶ原の合戦のあとそのまま、豊臣を滅ぼすことも不可能ではなかった。しかし、家康は大阪城二の丸に入っただけでさっさと関東に帰り、あまつさえ、生前の太閤との約束に従って孫の千姫を嫁として豊臣にさしだしている。そして、じつに十数年の間豊臣が大阪にあることをゆるした。
大阪の陣のきっかけとなった、言いがかりとしかいえない相国寺の鐘事件を見てもわかるように家康の意思が豊臣滅亡にあったことは、明白である。しかしそこにたどり着くまでに、かかった歳月を考えれば、人間五十年と謡われた時代、関ヶ原のときに家康はすでに六十過ぎ、そこから十年以上も待つことのできる胆力は並ではない。
倉庫課 次長の影武者
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