そろそろ長文に疲れてきたので八回で終わりにさせてください。
泣き言がすんだようなので最終回にふさわしく、信長、秀吉、家康の三人の天下人をばっさりやらせていただきます。
まずは、織田信長。尾張の守護職斯波家の家老織田信秀の嫡男としてこの世に生をうける。若い頃から奇矯な行動と奇抜な衣装を好み尾張のうつけ殿として近隣に名を知られる。
しかしそのころから、英雄たる片鱗はあったのであろう。実父たる信秀は、うつけの信長を廃嫡して聡明と評判の弟信行をたてよ、という家臣の声に耳をかすことを一切しなかたし、斉藤道三は家臣にいずれ自分の息子たちは信長の城門の前に馬をつなぐだろうと、もらした。ちなみに馬をつなぐというのは、配下になるという意味である。さらに越前で朝倉氏の覇権を絶対的なものにした大立者である朝倉宗摘はいまわのきわに、死を厭いはしない。しかし叶うことなら後五、六年生き延びて、尾張の若殿の行く末を見たいものだといいのこしている。
しかして、信長は家督をついでからまさしく風雲児とよべる活躍をみせる。その偉業はあまりにも有名であるため、ここで改めて語る必要がないほどである。
私は信長という人間の本質は、手堅さにあると考える。信長の生涯において、冒険とよべるのは桶狭間があるのみで、あとは相手より多数の兵力をそなえ、重臣を調略し勝つ条件をそろえ勝ちやすきに勝つ戦しか行っていない。信長と敵対したものは、多数そろえられた鉄砲や三間半の長柄槍、兵農分離された職業的兵士といった時代の最先端の技術ではなくむしろ信長の手堅さに敗れていくのであった。
しかし、万事において慎重な信長も生涯に一度だけ油断をする。本能寺の変である。
この本能寺の変、世間では黒幕をめぐって諸説があるが私は光秀の単独犯であると考えている。理由はこうだ。
光秀という男、信長に仕えるまでたびたび主を変えている。最初は朝倉義景、次に足利義昭。最後に信長、都合三回。このことから、光秀は機会をとらえて上昇することを望む人間であると推測される。そんな光秀にとって、本能寺は絶好の機会であった。織田家の基盤である畿内は空白状態。織田家が誇る五大軍団のうち三軍はそれぞれ、毛利、上杉、北条といった土着の大勢力と大戦の真最中。そんななか信長が嫡子信忠とわずか200程度の馬廻りとのこのこやってきたのだ。好機といわずしてなんというのだろう。
かくて信長は生涯にただ一度の油断に本能寺でその生涯を終えることになる。
倉庫課 次長の影武者
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