2006年11月15日
 ■  第六回 立花宗茂

この人はサラブレットである。実父は高橋紹雲、養父は立花道雪。ともに斜陽の大友家を支えた名臣である。氏より育ちというが氏も育ちも当代一流の父をもっていた宗茂は双方の父の名を辱めることのない名将に成長する。秀吉は宗茂のことを西の立花、東の本多。家康の家臣で、家康には過ぎたるものが二つあり唐の頭に本多平八郎忠勝と当時詩にも謡われ、生涯60以上の合戦に参加しながら一度も戦傷を負うことがなかった武神と並び評したほどであった。
 秀吉の九州征伐以後、宗茂は豊臣政権内の一大名として数々の戦に参戦しその勇名が虚名でないことを示す。
 やがて宗茂に人生の転機が訪れる。1600年、関ヶ原である。
 豊臣を守らんとする三成と徳川の天下を目指す家康。圧倒的に優勢なのは家康であったことは衆目の一致するところである。一般的に豊臣恩顧とよばれる大名のほとんどが三成を憎むことで、大恩ある秀吉を裏切るという後ろめたさをごまかし家康についたのにたいして、宗茂は滅亡のふちから救い上げ、あまつさえ大名にまで引き立ててくれた秀吉の恩に報いるために西軍につく。結果、宗茂は先祖伝来の土地を失うことになった。
 だがやはり、宗茂は真の名将であった。領地を失い浪人となった宗茂をその家臣たちが支えていく。これは本当に稀有なことである。関ヶ原が終わり多くの大名が取り潰しにあい、多数の浪人が巷にあふれた。生き残った大名たちは、そんな浪人たちのなかからこれは、と思った人物を家臣に向かいいれる。例に挙げるなら、山内一豊が織田家の名家老としられた百々綱家を家老待遇で召抱えたように。立花家でそれと知られた人たちならば、引く手あまたであったはず。しかしかれらは、そんな仕官の声には耳を貸さず、自らが野良仕事をして宗茂を支えつづけた。
 やがて、そんな稀有な主従の話が時の将軍秀忠の耳にとどく。宗茂に興味をもった秀忠は本多正信に宗茂と会うように命じる。
 対面の日、向かい合い座っている正信と宗茂に茶を運んできた家臣の一人が粗相をしでかす。正信に茶をぶっかけてしまったのだ。あわてて平伏する家臣を横目に宗茂は、「このものは、槍を持てば当家随一の豪の者。今はそれがしの不徳によって侍女の真似事をしていますが、本来は戦場にある男なれば、不調法の段ひらにお許しを。」といって頭をさげた
 これには正信のほうが、狼狽した。今は落ちぶれたとはいえ、十三万石の大名だった男である。しかも秀吉に激賞されたように武士としての矜持も誇りも誰よりも高い。それが将軍の側近とはいえ、軍功とはまったく無縁の文治の徒にすぎない自分に何のわだかまりもなく頭を下げることができるのだ。それも家臣の些細な失態を詫びるために。
 宗茂の株が正信の中で上がったのはいうまでもない。さらには、秀忠も宗茂の人柄にすっかりまいってしまい。奥州に一万石の知行地をあてがい、大阪の陣以降、旧領である筑後柳川十三万石をあたえる。
 人を動かすのは至誠なり。関ヶ原の合戦の結果に宗茂主従は一言半句すら不平不満をもらしたことはない。起こったことは起こったこととしてとらえ、家臣は主君の為に主君は家臣の為におのおのができることをする。その姿が人々の感動を呼びやがて旧領復帰という奇跡をおこすことになる。

倉庫課 次長の影武者
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投稿者 jatehime : 2006年11月15日 00:00

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