小早川隆景
この武将には、特別思い入れがある。あれは、高校二年のとき当時の大河ドラマ「秀吉」
主演が竹中直人のこのドラマ、大河のくせに安っぽいセットとストーリーの荒唐無稽さで私の周りでは、ちょっとした話題になっていた。ある回で秀吉が吉川広家と隆景に黄金の茶室を自慢するシーンがあって私が知人に「高松城攻めでは、完無視だったのにあんなシーンで両川初登場ってどうよ。」と聞くと知人はきょとんとした顔で、「両川ってなに。」と聞かれ、その後のやり取りで私が当たり前に誰でも知っていると思っていた歴史にかんする事柄は、じつはかなりディープな領域に属するということをおもい知らされた。
さて小早川隆景。戦国屈指の謀将、毛利元就の三男。子供の頃に兄である吉川元春と雪合戦をやったとき、一気呵成に攻め込んで勝利を得た兄にたいして、隆景は伏兵をもちいて兄に土をつけた。これの結果で元就は、武勇を尊ぶ山陰地方に元春。知略を尊ぶ山陽地方に隆景をそれぞれ養子に出すこと決めたといわれている。やがて跡取りであった、隆元が夭逝しその子、輝元が若年であったため隆景と元春がこれを補佐することになる。この政治形態を吉川、小早川、それぞれの姓に川の字があったため毛利の両川体制と呼ばれるようになる。
本能寺の変のあと、大返しを敢行した秀吉の背後を毛利は襲うことをしなかった。長年にわたって、領地を侵略してきた、憎むべき敵である。しかも和議を結んだのは、信長であって秀吉とではない。よって信長が横死ため、和議も白紙同然である。そんな状況なら毛利家家中に強硬論がでないわけがない。それをおさえたのが、隆景である。後年秀吉の軍師として名をはせた黒田如水をして判断に誤り無しと言わしめたほどの神がかった状況分析能力をもつ隆景には、観えていたのだろう。たしかに後背を襲えば秀吉の首級は、たやすくあげることができる。しかし、その後はどうなる。永年にわたる戦いで国人衆の負担ははかりしれない。それに比例して不満は爆発寸前である。とても遠征ができる状況ではない。一方中央では、信長という絶対的な指導者とその後継者であった信忠をいっぺんに失い空洞化しているが、いずれ柴田、丹羽、徳川、明智、羽柴なりがとって変わることは、目に見えている。そのとき毛利が羽柴を討っていれば、いずれの勢力にたいしても、侵攻の大義名分をあたえることになる。そうなれば、毛利は今度こそ支えきれない。逆にここで秀吉に恩を売れば、秀吉が勝ちを拾えば毛利は大恩人となり、秀吉政権において重要なポストを占めることができる。仮に敗れたとしても、秀吉を盾として力の回復を図り場合によっては、秀吉を討つことで毛利の地力をもって有利な条件で敵勢力と和議を結ぶことができる。
幸いに秀吉は勝ちを得て、隆景の読みどうり、毛利は上にも下にも置かれないほどの厚遇をうけ、隆景自身も五大老の一人に抜擢される。
最後に隆景の言葉で印象に残っているのをひとつ。
急いでいるときほど、ゆっくりと。なぜなら、急ぐということは、重要な用件であり、えてして間違いが許されないものである。だからこそあわてずにことに望むことが、求められる。
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