徳川秀忠。
いやはや、なかなか歪んでいます。数多いる戦国武将のうち、よりによって何故に、秀忠なのか。例によって開き直りです。では、いざ参る。
徳川秀忠。家康の三男にして、二代目征夷大将軍。この人を語るうえで欠かせないのが関ヶ原の大遅刻である。家康は東海道を豊臣恩顧の大名たちを引き連れて、秀忠は徳川勢と共に中山道を。このとき秀忠は信州上田で稀代の謀将、真田昌幸の篭城戦術に翻弄され関ヶ原に着いたときには、決戦は終わっていた。おおよそ、三万八千の軍勢。しかも、元亀、天正の頃から武田信玄や北条氏政、浅井朝倉といった強豪たちに家康の采配のもとに戦った兵を擁しながらの大遅刻は前代未聞の大失態である。だが、これは家康と秀忠との間であらかじめ決められていた狂言ではないだろうか。と私は思う。理由はいくつかある。
まず、秀忠には、優秀な兄弟、即ち後継者としての資格を持つライバルがいた。しかもとびきり強力な兄が。次男の結城秀康。十七歳のとき、大阪城内の馬場で自分に馬を寄せてきた秀吉の御家人を、たとえ殿下(秀吉)の御家人といえども、秀康に馬を並べる法はありや。といって、一刀のもとに切り捨て天下に武人としての矜持を示した猛将であり、徳川譜代はおろか、豊臣恩顧の大名からも絶大な人気を誇る。
秀康の絶大な人気を考えれば、秀忠の地位は非常に危ういものであった。秀忠をして後継者たらしめているのは、ひとえに父、家康がそう定めているからに過ぎない。よって、家康が後継者指名を白紙に戻そうとしたときに、体をはって翻意を促がしてくれる後ろ盾を持たない秀忠は、なにを置いても家康の意にそうように、行動しなければならないはずである。
次に中山道の人選である。本多正信、大久保忠燐、榊原康政。いずれも、万石取りの重臣であるがこの中で、榊原康政が問題となる。徳川四天王の一人であるが、徳川と密接な関係にあった、酒井、本多、駿河の名門、井伊などに比して榊原は郷士である。閉鎖的な徳川家中においていっかいの郷士たる康政が四天王と呼ばれあまつさえ、万石取りになれたのは、本人の能力もさることながら、誰あろう秀吉のおかげである。
小牧長久手の戦いのとき思いつく限りの悪口雑言で秀吉を罵倒した康政を、秀吉は和睦の使者とし、陣中に向かえると康政の忠義や武勇を褒めちぎり、官位をあたえる。
官位が上がればそれ相応の領地が必要となり、吝嗇な家康としても世間の手前、二万石の大名に抜擢する。その後もおりにふれては、康政を気にかける。そして、家康が関東に国替えになったときに、秀吉は康政の加増を家康に命じ、康政は館林十万石を得る。
一連の康政贔屓が秀吉一流の諜略であることは、いうまでもない。鉄の結束を誇る家康家臣団に亀裂をいれようという、意図がみえみえである。
幸い康政は、徳川に対する忠義一途の人であったが、家康との間は完全に冷えきっていた。晩年、体を壊した康政をみまった使者に対して家康の使者には、布団の中から、拙者も年老いて腸が腐り申した。と暴言を(康政は使者の本多正信に対して日ごろから、味噌勘定しかできない、腸腐され者と広言して憚らなかった)吐き、秀忠の使者に対しては、正装に着替え使者を上座において、秀忠のみまいの言葉にたいしてお礼を述べたとされている。
信玄、信長といった戦巧者の采配を見聞し、秀吉の謀略の凄まじさを知り尽くした家康にとって、たとえ譜代の重臣といえども信用の置けないものを戦場につれていくことは、出来なかったのではないだろうか。
最大の論拠としては、やはり関ヶ原の合戦後も依然として、秀忠が後継者としてあり続けたことにある。戦局を左右できるほどの大兵力を擁しながら、肝心要の戦に遅刻する前代未聞の大失態である。秀忠以下、首脳陣は全員切腹しても追いつかないほどである。それが誰一人として、お咎めなしでは間尺が合わない。
さらに秀忠が率いた三万八千が徳川政権を恒久的なものにするための政争の場において
他の大名たちの不満をねじ伏せる強力な抑止力になったことを考え合わせれば、やはり遅刻は狂言であったと考えるのが妥当であろう。
そう考えると秀忠の人物像がみえてくる。父親に従順な恐妻家という世間一般のイメージではなく。名よりも実を取るというよりも、実の為に名を捨てる即ちその時々においてもっとも重要なことをためらうことなく、選ぶことのできるリアリスト。しかし、けっしてワンマンというわけではなく、部下の意見を虚心で聞くことができ、その才能をいかんなくふるわすことのできる器量。なかなか魅力的な人物に思えるのは、私だけだろうか。
倉庫課 次長の影武者
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