石田三成
戦国武将と銘打って信長、家康を無視していきなり、三成を取り上げるあたり、自分でも歪んでいるなぁと、思わないでもないが好きなものは好きなので、仕方ないと開き直ってたりする。でわ、いざ参る。
石田三成。近江の土豪、石田家の次男。幼い頃、寺で修行中、偶然立ち寄った秀吉が疲労困憊なのを見て最初は茶碗いっぱいの水を。それを飲み干し、呼吸を整えた秀吉に今度は茶碗半分ぐらいの白湯を。白湯を飲み干し、心身ともにリッラクスした秀吉に今度はきちんとした作法に則っり入れたお茶をだし、人の欲するものを慮り、それを先んじて実行できる、行動力と頭の回転の速さを、秀吉に認められ小姓として取立てられた。あまりに有名なエピソードであるがおそらくは、創作であろうと思われる。なぜなら時期的には、浅井を滅ぼし信長から近江の差配をまかされ、城を長浜に移したぐらいである。このときの秀吉は金ヶ崎で見事に殿を果たし、武将として天下に名前を売り出したころである。常識で考えてみよう。百姓あがりながら、柴田、林、佐久間ら、織田家譜代の重臣を差し置いて近江を領することになった、織田家随一の出頭人。金ヶ崎で勇名を馳せた羽柴秀吉が寺にやってきたのだ。小坊主に接待役を任せるわけがないだろう。だが、後世にこのようなエピソードを創作されるほど、頭がずば抜けてよかったことは、歴史が証明する事実である。例えば、朝鮮で豊臣軍が戦を続けられたのは、ひとえに三成が指揮した補給部隊のおかげである。三成でなければ、戦線を維持することはおろか、あまたの将兵が生きて日本の土を踏むことは、適わなかったであろう。
私が三成を好きなのは、ずば抜けた頭のよさに憧れるミーハーな部分と、戦国時代の武将には、珍しい潔癖な理想主義者な点にある。三成の旗印、大一大万大吉。一人はみんなの為にみんなは一人の為に力を尽くせば、天下は幸せになる。おおよそ、そのような意味合いであるが、三成はその理想を全身全霊で体現させようとしていた。あまり、知られていないことだが、秀吉が天下の主だった時代は庶民にとって生きにくい時代であった。そんななか、三成は自分の領内において、善政をしきたいそう庶民から慕われていたそうである。
しかし、自らの長所ともいうべき頭のよさと、理想が三成自身を破滅に導くことになる。
頭がよすぎるがゆえに、他人の意見を聞くことがなく、潔癖であるがゆえに融通がきかなかった。そのため、豊臣政権内において人望を失い、結果、関ヶ原において、相手より大軍でしかも先んじて高所を押さえ、なおかつ、包囲に成功するというこれ以上はないという好条件を整えながらも諸侯の寝返りにあい、一敗地にまみえることになる。だが、負けたとはいえ、三成が傑物であることにはかわりない。伊吹山の山中から京の刑場へと向かう途中喉の渇きを訴え、白湯をたのんだ三成に兵士は山中だから白湯はない、かわりに干し柿があるからそれで、我慢してもらえないだろうか。すると三成、干し柿は胆の毒だと聞く。自分は体が丈夫なほうではないので、いらないと。せっかくの好意を無にされた兵士は、もうすぐ首をはねられる人間が健康を気にしてどうするのかとあきれた。三成は、真の大丈夫はたとえ首をはねられることになっても、最後の瞬間まで命を粗略にしないものだと。
この話を聞いたときの感動を今も忘れていない。命を懸けることと、命を軽く見ることは、同じように見えてまったく異質のものであると、初めてきづいた。真に命を懸けた人間はその重さゆえに最後の最後まで決してあきらめないものだと。
倉庫課 次長の影武者
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